確率盲検のインサイダー

「どうするんですかこれ」
「どうしようもないんだよこれ」

 警官が二人、蛍光灯の下で頭を抱えて書類を付き合わせる。

「これをインサイダーで起訴しろっていうんですか」
「分からん。お偉いさん方も派閥まで出しゃばってきて大騒ぎらしい」

 書類には容疑内容と容疑者達の名が挙げられている。警察署を騒がせているのは、主に以下の二名だ。
 被告エヌ氏、30代独身。エム氏が株取引をしている事を知りながら「これから株が上がる」と告げ、インサイダー取引に関与した疑いで逮捕。本人も容疑を認めている。これだけならよくあることであり、何も問題は無い。

 問題なのは、エム氏だ。
 被告エム氏はエヌ氏に関わらず無数の会社員とインサイダー取引の連携を行っていたようだが、問題はその方法にある。
 エム氏は株価の行先について、「上がるか、下がるか」しか聞かない。そして、その返事の内容に如何無く、エム氏が事前に設定した確率で返事に従うかどうかを決める。
 「上がるor下がると答える確率」に「それに従うor従わない確率」をそれぞれかけて足し合わせると、「平均的なトレーダーが勝敗する確率」に近似されるようにエム氏が従うかどうかの確率は操作されている。エム氏の資産は見かけ上は全くの一般トレーダーであるかのように振る舞う。しかもトータルで負けている。
 ただ、これだけであれば、個別の事案についてインサイダー取引を行っているのは間違いのないことであり、起訴するのは容易だ。
 問題は、エム氏がここに更に一段階の盲検法を貼ったことだ。
 エム氏はインサイダー情報のために電話をかけるが、ここで他に多数のフリーターを雇っている。
 エム氏が電話をかけるとき、何も知らない人間から電話番号が届けられるが、それがフリーターに繋がるのか、本当にサラリーマンに繋がるのか、それ自体をエム氏は知らない。いずれの場合でも「上がる」「下がる」のいずれかが告げられ、エム氏は従うかどうかを決めるだけだ。
 勿論、フリーターに繋がる場合とサラリーマンに繋がった場合の結果を計算すればやはり期待値上で一般トレーダーと同じ勝敗率に近似するように正しく電話の取れる率が設定されている。
 ここにきて問題になるのは、故意が容易に成立しなくなることだ。
 インサイダーだろうとなんだろうと、一部の「過失」と名のつく罪を除いては、裁判で有罪にするためにはとにかく被告の悪意を証明しなければならない。インサイダー取引を行おうという明白な意志を。
 だがこの一件について刑事起訴に踏み切ったところで、「普段はフリーターの方に繋がるのでインサイダー取引というつもりはありませんでした」と言われたら、過失になる。それだけで大失態だが、「信用のできない方なので、電話とは逆の方向に注文を入れました」とまで言われたら、そもそもインサイダー自体が成立しなくなるだろう。大恥だ。
 確実に起訴できるのはエム氏を何百回でも逮捕して、今回のように本当にインサイダー取引を行ってしまった場合に、かつサラリーマンの言うことを信じてその通りに売買した場合のみだが、果たして、それに縦に首を振る確率はエム氏の机上でどれほど低く設定されているのか。
 そしてエム氏は、自らの手法を口にした後、「残りは弁護士を通して」と頑なに口を閉じ、以降黙したまま何も語ることがなかった。

 エム氏の逮捕によって、一人のトレーダーでなく警視庁が確率の上に乗った。

「妙なこと考えるやつもいるもんですねえ」
「まったくだ。こっちはてんやわんやだ」

 若い男がお茶を入れる。

「ところで警部、確率的な殺人鬼って信じますか?」
「なんだそれ。調書の読みすぎで頭がおかしくなったのか」

 警部は荒々しくお茶を飲み干すと湯呑みをゴンと机に置いた。

「いえね」

 警部補は淡々と類似の計画を説明する。
 まず主犯となる人間を用意する。その下に、実行犯を100人ほど用意する。
 主犯となる人間は大金持ちであり、仮に殺害が行われれば、被害者と同年代の人間100人の命を救うものとする。そのために実行犯は善意で命令に従う。
 主犯は仕入れ業者から3つの紅茶の売買を持ちかけられる。その内一つは特殊なアレルギー性を持ち、身体に適合する人間が飲むことが初めてであった場合死亡する。だが残りの二つは通常の紅茶である。
 主犯は仕入れると、それを100パックずつ、各100人に配る。10000個の紅茶が世に放たれる。死亡率は、知らされてもいない。ひょっとしたら、無害なのかもしれない。

「それで、ただ100回分もお茶のパックを配られたので何も考えないでお出ししてただけで、人が死ぬなんて思いもしなかったんです、と証言された時に、万が一物証が出ても、実務上そう簡単に未必の故意取れますかね」
「めんどくせーこと考えるなぁ」
「趣味でして」
「流行ってんのかぁ? エムの野郎が逮捕されてからなんかみんなずっとこんな調子だよ」

 警部はゴンゴンと机を膝で鳴らす。

「まぁ、なんか僕もアテられちゃったっていうか、なんていうかね。それよりですね」

 警部補は静かな声で言った。

「さきほど飲み干されてしまったお茶、おかわりはいかがですか?」

20220608 マッチ売りだった少女

 警察官という身分にありながら、背徳的な欲望を抱えた男がある遊郭を訪れた。
 絶大な権力を裏に纏い国家権力からも匿われ、身分を隠して少女とまぐわえる桃源郷があるのだとか。
 果たして男の願いは叶い、あっという間に精根尽き果て、支払いをする段になった。
 数ヶ月分の給料が皿に乗ると、「確かに」と皿が引き払われ、代わりにレトロなマッチ箱がカウンターに乗った。なんだろうかと男は首をかしげる
 そういえば聞いたことがある。この遊郭には奇妙な風習があると。しかし、一体どうしてだろう。男は興味本位で尋ねた。
 受付の女は事務的に答えた。皆さん同じことを聞かれます、と。つらつらと女は話し始める。
 その昔、雪の降る中マッチを売る少女がいた。もう家に金はない。このマッチが売れなければ死んでしまう。しかしマッチは一向に売れなかった。
 少女は朦朧としながら叫んだ。いっそ私ごと買ってくださいと。奴隷にでもしてくれて構わないと。だけど奴隷なんてのはファンタジーの存在で、すぐに見知らぬ男に一晩を買われることになる。地面に伏せる少女の目からは涙すら流れなかった。ただ、その手には札束が握られていた。
 少女はその金で食料を買った。衣服を買った。住処を手に入れた。それだけで金が無くなった。足りない。まだ足りない。私が求める幸せな生活には、まだ。

「マッチは要りませんか」

 その挨拶はすぐに身売りの符丁になった。
 少女は一夜を過ごした後、律儀にマッチを渡し続けた。これはマッチを売るためだと、自分に言い聞かせるかのように。
 少女の金への執着は、尽きることがなかった。
 何度でも何度でも、少女は寒空の下で身を売った。

「……それで金持ちになった少女は身を立てて権力を手に入れて、今じゃこの遊郭があるってわけでさ。めでたしめでたし。創業者の名残で今でも客にはマッチを渡してるのさ」
「はあ。でも、少し話が出来すぎていませんか。そんな権力、そうそう手に入るものかな」
「噂によるとその少女が嫁いだのは警視総監殿らしくてね」

 男の背筋が凍りついた。

「まだご存命だよ。陰口なんか口が裂けても言えちゃしねえ。だけどな、警視総監殿がどうあれウチらは何もやましいことなんかしちゃいないんだよ、だって──」

 女は男の手に何かを握りこませると、不気味にニタリと笑って言った。

「ここではただマッチが売られているだけ。そうだろう?」

SCP-XXXX 死に至る病

scp ウイルス ミーム 情報災害 収容不可

 

アイテム番号: SCP-XXXX

オブジェクトクラス: Euclid Safe

特別収容プロトコル SCP-XXXX及びその変異体は複数の人間が死亡したいかなる地点にも発生する可能性があります。市街地でのSCP-XXXXの発生または拡大が確認された場合、ただちに周辺住民に記憶処理を行ってください。どれほど小規模であれ医学論文等で新型肺炎の報告がされた場合、それがSCP-XXXXの変異体でないかどうかを必ず調査しなければなりません。

現在までに発見されているSCP-XXXX変異体の一覧については目録を参照してください。

2013.06.02追記: チームXXXXによる撲滅作戦の進行に伴い、目録は削除されました。SCP-XXXXの事実上の根絶後、SCP-XXXX新規変異体の発生は現在までに確認されていません。

2013.06.14追記: SCP-XXXX-1を根絶する試みは現在永久的に凍結されています。

説明: SCP-XXXXはミーム性の新型肺炎です。SCP-XXXXに罹患した人間が死亡している可能性は100%であり、SCP-XXXXが原因で死亡に至った人間は現在までに確認されていません。確認されている限りではこれまでに約1005億人がSCP-XXXXによって死亡しており、この数字は地球上で誕生し死亡した全てのヒトの個体数とほとんど一致します。SCP-XXXXがいつからどのように存在していたのかは定かではありませんが、人類が誕生した時から常に新型肺炎であったと考えられています。

SCP-XXXXは高密度のミーム性を有した異常存在であり、汚染した人間の死因を新型肺炎であると観測者に誤認させます。ミーム部門で用いられている薬剤や施設の影響下に無い限り、それが肺炎として考えるのにどれほど不自然な状況であっても異常性に気付くことは出来ません。

SCP-XXXXは19██年にサイト-███で起こったミーム性異常存在の収容違反の際、鎮圧に要した██名の犠牲者の死因を数名の職員が不審に感じた事により発見されました。該当の収容違反における死因は主に頭部が内側から████するものであったのにも関わらず、それをサイト-███内で局所的に発生した新型肺炎に感染した結果とすることにほとんどの人間が異議を唱えませんでした。SCP-XXXXの発見までの間、この収容違反を鎮圧するために死亡した人間は0名、新型肺炎で死亡した人間は██名と公式に記録されていました。

この事件の後SCP-XXXX収容のためにサイト-████が建設され、チームXXXX - "ライオンのはらわた" が組織されました。チームXXXXはSCP-XXXXの収容を不可能であると判断し、現在に至るまで撲滅作戦を続けています。その成果として、かつて膨大な種類が存在したSCP-XXXXの変異体は、僅か1種類にまで削減されました。

撲滅作戦中にSCP-XXXXの変異体に汚染されていたことが判明した実在の巨大な疫病には、██病、████かぜと現在呼ばれている概念が該当します。

 

 

 

 

要調査事象 - 1961.11.27:

19██年██月██日、██████州にて大型車が男性3名に衝突する事故が発生。被害者である男性Aは全身を粉砕された結果、肺炎により即死。男性Bは下半身を吹き飛ばされたものの即死せず、病院に搬送されたが約10時間後に死亡。死因は大量出血が原因で生じた肺炎。男性Cは左腕を失うだけで済んだが、事件から2年後に首吊りを行った。検死解剖の結果、肺炎を用いた自殺と診断された。3人の肺炎が全て同一のものと明らかになると、医学論文上で「車両衝突性新型肺炎」として報告された。

 

 

要調査事象 - 1964.03.02:

19██年██月██日、████████の大統領であった████・██・███████がパレード中に公衆の面前で頭部を弾丸に貫かれた。辺り一体は一時的なパニックに陥ったが、数分後に大統領が死亡し肺炎であった事が誰の目にも明らかになるとすぐにパニックは収束した。付近では少し前から新型肺炎が流行していた。

 

 

要調査事象 - 1967.08.15:

█世紀に起こった██████の戦いにおいて、交戦中だった████と██████の両軍が前線地域での疫病発生を理由に撤退。多くの兵士に全身から出血する、頭部や四肢が欠損する、身体が武器で貫かれる等の症状が見られ病死した。両軍が撤退した後に病死する者は出なかった。以上の経緯をもって████と██████は一時的な和睦を結んだ。この戦いは疫病のため約██万人の犠牲者を出したが戦死者は0名だった。現在の医学的知見によれば実際の死因は新型肺炎だと推定されている。

 

 

 

 

「この病気に限って言えば、感染した人間が死亡するのではなく、死亡する人間が感染したことになるのです」 ── ██████ 博士

 

 

 

 

目録 - 削除済

 

 

手記 - 2013.06.14:

ああ、クソ、完全に打つ手無しだ。結局のところ俺たちのクソは半世紀もかけて一体何をしやがった?

昔この世には無数の肺炎があった。クソ馬鹿馬鹿しい事にこの報告書の初期のものにはSCP-XXXX-372891までご丁寧に記載されていたんだ!

俺たちが最初にクソやったことは変異体の見かけ上の数を減らすことだ。撲滅作戦は順調だった。最初はな。少なくとも順調に見えたんだ、結局のところそれが何の意味もない徒労だとも知らずに。

最終的に俺たちは遂に変異体の数をたった1つにまで──ただひとつのSCP-XXXX-1にまで──集約する事に成功した。SCP-XXXX-1に全てのヒトが既に汚染されきっていて、簡単には除去不能だと分かったのを除けば、作戦はクソほど大成功に見えた。ああ、そうだ、そう見えたんだよ、畜生。

だって後は報告を記憶処理部門に回して地球サイズの記憶処理爆弾を1発撃つだけでこの破滅的な情報災害が終わるんだぜ? Kクラスシナリオを引き起こせるような他の厄介な異常存在と違ってそれがどれほど楽なことだと思う? カバーストーリーだって例えば大型発電所が爆発した衝撃波が地上を覆ったとかで十分なんだからな。記憶処理部門じゃない俺にだって簡単だって分かるレベルだ。

俺たちは作戦の成果とこの後の手続きを記憶処理部門に回そうとしたよ、だけどあの朝、誇り高い我がチームに一人だけミーム部門の標準的な内服薬を飲み忘れたクソ野郎がいやがったんだ。そのクソは案の定ミームを直視しちまってSCP-XXXX-1を地上から撲滅したら大混乱が起きるとか言い始めた。終了されなかったのは幸運だったな。ただ内服薬の飲み忘れ自体が何かしらのインシデントを告げている可能性があったから、最終報告を上げるのは暫く延期になった。

そんで次の日、いつものように仕事前に内服薬を飲もうとしたとき、ふと昨日の事を思い出した俺はガタガタと手が震えたんだよ──多分チームの全員がそうだったろうな──自分達がいかに恐ろしいことをしようとしていたのかに気がついて。

あのクソが言ったことは正しかったし、クソなのは俺達の方だった。人類はSCP-XXXX-1と共存するしか無い。これを撲滅することは不可能だ。あるいは撲滅をしても代わりに別の何かを全人類に植え付ける必要があって、それをSCP-YYYYとでもナンバリングするだけだ。大体そんなことは現実的に不可能だし、打つ手なんかもう無いんだよ、畜生。

こいつは文字通り何もかもを新型肺炎に偽装していやがった。自分自身の正体すらもだ。だからミーム退治に必死で無機質になりすぎてた俺達は気付かなかった。「それ」が何かなんて考えないで、ただSCP-XXXX-1って理由だけで本気で地上から消滅させようとしてたんだ。「まとも」な頭で考えれば最後に残った「それ」が何かなんてクソほど明らかだったってのに。記憶処理部門のカタブツどもは、俺らが「それ」をSCP-XXXX-1だって言ったら何の疑問も抱かずに爆弾をぶっ放してただろうよ。

なあ、もしSCP-XXXX-1が無いとしたら、そこにあるものは何なんだ? SCP-XXXX-1がまだ存在しなかったとき、人類は一体どんな世界を見ていたんだ? あるいは人類が始まった時からこいつはずっと俺達の側にいたのか? 誰にもそれを思い出すことは出来ない。

人類がSCP-XXXX-1を忘却したら、その後に起こる混乱がどれほどのものになるのかは想像もつかない。それは人類がある概念を失う事を意味するからだ────

 

 

 

────現在の世界において、SCP-XXXX-1は「死」という病名で呼ばれている。

2020年06月15日 命は、あると思えば、そこにあります!

 「あら、変ね。こんな大きさだったかしら……?」

 リビングのテーブルで咲く小さな赤いバラが少し成長したのを見て、ある母親は不思議に思いました。だってそのバラは、造花だからです。

 家に何か彩りが欲しくて観葉植物を買おうと思ったはいいものの、場所を取ると後で困るかもしれないし、手入れをするのが面倒だし、要らなくなったりしたら処分するのも心が痛みそうだし、じゃあ観葉植物はやめて花でも一輪買ってみようかとも思ったけれど、美しい花がしわがれていくのを見るのはどこか自分と重なって自己嫌悪に陥りそうで、それで小さな造花なんてわざわざ買ってきたのです。

 この造花は母親にとって素晴らしい買い物でした。場所を取らないし、手入れも要らないし、枯れないし、そして何が一番良いって最初から生きていないのです。お花屋さんで店員さんがその瞬間まで生きていた花を鋏で断命するのを見てちょっと心の痛みを感じるだろうし、それを体験するのすら厭ったのでした。

 そんな理由で造花なんて買っておきながら、やっぱり愛着でも湧いたのでしょうか、「流石にかわいそうだから」なんて理由で造花に水をさしていたりもしたのでした。

 さて経緯はどうあれ造花ですから、壊れることこそあれ、買った時より成長することなんてあるわけがないのです。

 これが普通の植物であれば、茎だけでも成長する植物があるとか、お花屋さんから買ってきた後に少しだけ背丈が伸びるとか、そういう事があるのはこの母親は知っていましたから、「造花 水 成長」なんて頭でもおかしくなったようなキーワードでgoogleを調べてみましたが、当然そんなことあるわけもなく、ヒットするのはyahoo!知恵袋で「質問者さんの頭は大丈夫なのでしょうか」なんて回答がベストアンサーになったページばかりで、まるで自分が馬鹿にされたような気分になり少し腹を立てたのでした。

 

 ただ、この母親についてだけは、きっと世界で唯一、少し話が違ったのです。

 その造花は、日に日に明らかに大きくなっていたのです。

 

 それでも最初は母親も、最近仕事が忙しくて疲れているものだから、活けた時に適当なコップを使ってしまったかしらと思っていました。きちんとバラの大きさに見合うよう、カクテルに使うような大きめの容れ物を探して移し替えました。

 ところが仕事から帰る度にバラが大きくなっているように見え、実際、コップを替えた時は底にかろうじて茎がついているくらいだったのに、気が付いたときにはコップから3cmくらい茎が顔を出しており、花弁だってしわがれるどころか妖艶に赤く爛熟して大きくなっていき、ある日母親が仕事から夜遅くに帰ってくると、遂にコップがバラの大きさと重さに耐えられずに床に倒れて割れていたのでした。床に転がるバラの大きさは、花束からいっとう大きいのを一つ抜いてきたような感じで、どうもコップなんかに活けられるような代物には見えません。

 何年か前に事故で死んだ夫のことで私も遂に気が触れてしまったのかと、母親は眉間をぎゅっと寄せて目をつむり額に手を当てました。

 とりあえず眼科に行こう、それで何の異常も無ければいよいよ精神病院に行こう、ああ職場になんて話せばいいだろう、まだ小学生の娘を私は一人にしてしまうのだろうか、親戚に面倒を見てくれそうな人はいるだろうか、そんな事をあれこれ考えながら、とりあえずこのバラは気味が悪いし見ているとますます頭がおかしくなりそうだから捨てよう、そう決めて床に転がったバラを拾ってゴミ箱の前に立った時のことでした。

 

 「どうしたの? ママ」

 背後から娘が訪ねました。

 母親は決して不安を悟られるまいと、ゆっくりと娘に振り返りました。

 「……伊子、このバラはね、お母さんにはちょっと気味が悪かったから、捨てることにしたの、それよりね、お母さんね、」

 娘は母親の言葉を遮りました。

 「捨てるなんてかわいそうだよ。それに、ひどいよ。だってそのお花さん、生きてるんだもん。妖精さんなんだよ。私に色んな事を教えてくれるの」

 こんな子供を私はこれから一人にするのだろうか、母親は天を仰ぎそうになりましたが、それでも涙をぐっとこらえて、母親は言いました。

 「伊子、あのね、これは造花っていうの。そっくりに見えるけど、おもちゃと変わらないのよ」

 「ぞうかなら、伊子知ってる。そうなんだ。妖精さん、ぞうかだったんだ」

 「造花を知っているなんて、伊子は凄い子ね。偉いわ」

 母親はいつもそうしているように娘を抱きしめて頭を撫でました。そして、布で出来た花びらとプラスチックで出来た茎を娘の目の前にヒラヒラとかざして言いました。

 「よく見て、伊子。でも、そうね、最近忙しくて、あまりお話も出来てなかったもんね。ごめんね」

 どうしても少し涙ぐみながら、母親は続けました。

 「ほら、分かるでしょう。伊子には言い忘れちゃったかもしれないけれど、お母さんが買ってきたのは造花なの。本物のお花じゃないのよ」

 すると娘は少しムスっとした声で言いました。

 

 「だけどお花の妖精さんは、生きてるよ?」

 

 娘の声を聞いた瞬間、母親は指に何かチクチクしたものが当たったような気がしました。バラをよく見ると、プラスチックの棘が茎から生えていました。こんなの元からあっただろうかと目をパチパチさせて眺めていると、突然わっと花びらが膨らみ、人の頭くらいのサイズになって、茎も腕くらいの太さになって、びっくりして母親は腰を抜かしてお尻から転びました。そのまま空中に放り投げられたバラは、くるくると回転しながら、スッと茎から立つよう綺麗に着地しました。母親の怯えた目に、茎が床に根を張って少しツタを伸ばしているのが見えました。

 

 その造花のバラは、信じ難いことに本当に生きていたのです。いえ、生きているのですから、既に造花では無かったのです。

 

 「ひっ、ひっ、」

 悲鳴にもならない音を喉からひゅーひゅー切り出しながら、震える体を必死で抑えて、鞄からライターを取り出して、母親は目の前の信じられない怪異を燃やそうとします。火事とかそんなことも考えられないくらいに母親は気が動転していました。それを見て娘が叫びました。

 「だから、なんでそんなかわいそうなことをするの!? 妖精さんは生きてるの!!」

 サッと波が走るようにツタが床中を覆い尽くし、瞬きもしない内に母親の足元まで辿り着いてライターを奪い取りました。母親の体は空中に磔にされました。

 「伊、伊子、落ち着きなさい、おかしい、こんなのおかしいわ、こんなことあるわけない、今すぐやめなさい、や、やめましょう」

 「嫌だもん。ママは妖精さんを燃やそうとするんだもん。生きてるんだよ? 生きてるものを無闇に殺したらいけないってママがいっつも言ってるじゃない」

 「そういう問題じゃないわ、こ、この目の前にいるのは、バケモノよ、今すぐ燃やしてしまわ────む、ぐぐ、ぅ」

 母親が全てを言い終わる前にその口はツタで覆われ、もごもごとした音しか部屋には聞こえなくなりました。

 「いいもん、ママがそんなことを言うならもうなんにも聞こえないもん」

 そう言うと母親を磔にしたまま、娘は寝室に行きました。

 「童話の中のお姫様みたい」

 寝室には茨のベッドがありました。

 「おやすみなさい」

 そうやって、この家での不思議な出来事は誰にも知られずに時間が過ぎていきました。

 

 この日からというものの、町には不思議なことが起こり始めました。

 ある小学校の通学路の周りで、毎日不思議な事が起きているというのです。

 ガードレールの形が日替わりでオシャレに変形したり、建物の壁に陽気な模様が突然現れたり、それが雨の日になると陰鬱な柄に変わったり、放置された自転車が勝手に走り始めたり、終いには歩道が口を開けて歌い始めたりと、メルヘンチックに正気を疑うことがたくさんあふれかえったのです。

 気味悪がって学校に行かなくなる子供や、はしゃいで戯れる子供など、色んな子供がいましたが、一人だけ違う子供がいました。

 小学校が暫く休校になり、警察とか科学者とかが事態の究明に当たっている日々に、その子供は通学路じゃないところを町中歩いて回っていたのです。

 彼女が道を通ればチューリップが歌い出し、木々が自分の体で楽器を作って伴奏をし、パン屋さんの煙突から出た煙が指揮棒を執り、さながら行進するオーケストラのように町に命が溢れていきました。

 「お花の妖精さんが教えてくれたの。ぞうかだって生きてるんだもの。命が無いって思われてるだけで、本当はどんなものだって絶対に生きてる!」

 彼女が「生きている」と思った瞬間に、その視界に映るもの全てが人間のように意思を持ち始めたのでした。

 町は日に日に賑やかになり、文字通り町を総出にした大合唱が昼も夜もなく鳴り響きました。壁の薄いマンションで騒音被害に苦しんでいた人はどこかへ引っ越してしまいました。時間帯も考えず楽器を弾いていた人もこれじゃ練習にならないとやっぱり引っ越してしまいました。

 

 彼女がまだ見ていない道のなくなったような、それくらい町に生命が宿りきった日の事でした。

 

 いつもは一日中歩くのにへとへとで、家に帰るとすぐに茨のベッドで寝てしまうのですが、大きな大きな一仕事を終えた彼女は、リビングでふと一息いれて母親の事を思い出したのです。

 部屋の隅には、あの日に磔にされたままの母親の姿がありました。

 「妖精さん妖精さん、お母さんを離してあげて」

 少女がそう言うと、母親を縛り付けていたツタはスルスルと離れ、その体はゆっくりと地面に横たえられました。

 「お母さん、お母さん」

 話しかけても、返事はありませんでした。代わりに「あは、あははは、あはは……」と聞いていて不安になるような音色が焦点の定まらない瞳から漏れるだけでした。

 「お母さんの、変なの」

 そっけない態度で不機嫌そうにベッドルームに向かうと、それでも少し母親の様子が気になったのか、少女は考え始めました。

 冷静に考えると、母親はもう何ヶ月も水も食料も口にしていません。それなのに、母親は確かに生きていました。

 「お母さんに、命って、あったのかなあ? 何も食べないで動くオモチャと、何が違うんだろう? 命って、なんなんだろう? ねえ、妖精さんは、知ってる?」

  少女がベッドの天蓋に話しかけると、ツタが犬のしっぽのような形を作って、フルフルと横に振りました。

 「そっかあ、妖精さんにも分からないんじゃ、私が分かりっこないもんね」

 それでも少女は、どうしても母親の事が気になるのでした。

 「もしかして、私が生きているって思い続けていたから、だからお母さんには命があるのかなあ……」

 

  

 「じゃあ、私が命があるって思わなくなったら、どうなっちゃうんだろう」

 

 

 そして少女は一瞬だけ、命のない世界を想像してしまいました。

 

 

 部屋に響いていた合唱がピタリと止まりました。

 静寂が部屋を支配しました。

 少女は音がないのにビックリして、床を蹴って急いで夜の町へと駆け出しました。

 もう歩道は喋りませんでした。建物の壁に模様もありませんでした。草花や木の類に至っては全部が全部枯れていました。町をどこまで走っても、少女の目には枯れた茶色しか映りませんでした。

 走る視界のあちこちに人が無造作に倒れていました。起こそうとして少女が人に触ってみると、その体の冷たさに驚いて後ろに飛び退いてしまいました。よく見るとその人の肌は、血の通ったものとは思えないほど蒼く白く染まっていました。

 少女は悲鳴を上げて誰かに助けを求めましたが、助けてくれる人も聞いている人も誰もありませんでした。

 倒れている人を見ては起こそうとし、まるで命がないのを確かめては次の人を探しました。

 10人くらい続けたあたりで、少女はふと警察官さんに頼るのを思いつきました。交番に走ってみると、中では蒼白く染まった警察官が何人か床に眠っていました。

 「ねえ、ねえ、誰かいないの。お願い、誰か、もう二度と、あんな事を思ったりしないから、ねえ、誰か、そうだ、妖精さん妖精さん妖精さんならきっと分かるもの、私に生きていることを教えてくれた妖精さんなら、きっとどうにかする方法だって知っているはずだもの」

 そう言うと少女は、自分の家へと来た道を引き返していきました。

 

 家に戻ると、もうツタに覆われた緑色の景色はありませんでした。町と同じように、家を覆い尽くしたツタは全て枯れてしまい、景色はただ茶色く染まっていました。母親も部屋の隅で蒼白く床で眠っていました。

 「ねえ、ねえ、妖精さん

 少女はバラの大輪だったものに向かって話しかけました。そこにはもうかつての赤色は無く、しわがれた茶色だけがありました。

 「妖精さん、お願い、返事をして欲しいの、ツタを伸ばすだけでもいいの、赤く戻ってくれるだけでもいいの、ねえ、妖精さん妖精さん、ねえったら」

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん……」

 

 少女の声が枯れ果てて終に蒼白くなるまで話しかけても、死んでしまったお花の妖精さんが返事をすることは、もう二度とありませんでした。

2020年06月05日 「元隻眼」の口裂け女

「目ェ、目ェ、足リ無いのォ、右ィ、左ィ、どッチが良ィいイイ……」

 私がこれから訪れる町には、隻眼の妖怪が出るという。

 組織が事前に噂を調べた限りでは、ターゲットは口裂け女の変種。この辺りの夜道に現れ、出会ったらきちんと対応しないと目をどちらか取られてしまうのだという。追い払うのにポマードは必要ないが、代わりに懐中電灯が要る。光がとても苦手で、それで夜道にしか出ないのだ。懐中電灯が無い時は街灯に向かって走れば良い、というわけにはちょっといかないのが厄介なところだ。遭遇した瞬間に金縛りを受けて、そのまま片目とはバイバイになる。幸いにも、と言って良いのかは分からないが、眼球を直接抉り出されても痛みは感じないらしい。

 取られた目がその後どうなるかというと、女が自分の眼窩に嵌め込む。「目ガ足リる、目ガ足リる」と暫くは喜ぶのだが、10分もしない内に嵌めた目が瘴気で腐り落ちてまた隻眼に戻ってしまう。目を取られた奴がその10分の間に光のある場所まで逃げなかったら、まぁ両目とバイバイってことになる。

 その隻眼女を成仏させるために派遣されたのが私ってわけだ。

 

 「着きましたけど、本当にお一人で大丈夫なんですか?」

 私が車から降りようとすると、護送車の運転手が言う。

 「うん、平気。慣れてるから」

 「いや、それでも……」

 運転手は何か歯切れの悪い感じで言う。仕方のないことだろう。

 「何、私の実力が不安?」

 「いえ、そういうわけではないんですが……その……」

 「あー、いーのいーの、そういうのは。確かに私はまだ16歳だけど、待ち合わせの駐車場にだって、初めての場所でも一人できちんと来れたでしょ?だから何の心配も要らないわ」

 「承知しました。失礼をお許しください」

 「だからそういうので畏まらないでって。それじゃあ、行ってくるねー」 

 私がそう言うとドアがバタンと閉まって、車が去っていく音がした。

 

 事前に地図はきちんと頭に入れてきた。私は何の問題もなくホテルに着いてチェックイン。初めての土地だって困らない。そして深夜、外に出た。

 田んぼが多くて街灯も無い、いかにも「出そう」な場所も事前に調べてある。ターゲットと遭遇するのにあまり時間はかからなかった。

 ずる、ずる、ずる、と、長い一本道の遠くから、何かが這い寄る音がした。それはこちらに向かって近づいてきて、すぐそこで止まった。

 

  「目ェ、目ェ、足リ無いのォ、右ィ、左ィ、どッチが良ィいイイ……」

 目の前にいるのがターゲットである事を確認して、私は言った。

 「どっちでも」

 ネチャアと音がして、そいつは嬉しそうに喋り始めた。

 「変ワった奴ダなァ、オ前……。ソれとも、もウ諦メてルノか?」

 言われて体を動かそうとしてみたが、動かない。自由になるのは口だけだ。なるほど、これが金縛りという奴か。寝てる間に起こるやつじゃなく「本物」を食らうのは流石に初めてだが、随分と違った感覚がするものだ。動かそうとしても動かせないのではなく、全身をコンクリートで埋められて動かす余地すらないような感じだ。

 ずる、ずる、ずる。音が私に近づいてきて、止まる。

 「ソれジゃあ、遠慮ナく、イたダキまァす」

 私の左目にぬちゅると何かが入る音がした。眼窩に手を突っ込まれているはずなのだが、確かに痛みはない。とても奇妙な感覚だった。

 ちゅぽっと音がして私の左目が抜き去られた。

 「ヒ、ひ、ヒひひヒひ……」

  女の笑い声が聞こえる。

 「左目、左目、もーラった。左目、左目、もーラった。コれデ目が足リる、目が足リる、目が足リ、足リ……、ア? ……ア、アアア、ア、アァあア?」

 直接持たれたら流石に違和感に気付かれちゃうか。まぁ、もう遅いんだけどね。

 「オ前ぇ!!! コれ、コれ、目ジゃ、目ジゃ無イィぃぃ!!! オかしイ、オかしイ、ナんで、コれ、オ前ぇ!!!」

 女はひどく慌てた様子で悲鳴を挙げる。

 「オ前、オ前ドっちでモ良いって言っタ!!! 私ガドっち取ルのカ分かラナかっタはズ、オ前!!! ソれナノにコれ、コれナんで本物ノ目ジゃ無ィいイイいィィ!!!」

 「ううん、それは確かに目だよ。義眼だけど。ついでに言うと、両目とも。目が見えないんだ、私」

 「嘘ダ、嘘ダ、オ前、オ前こノあタリの人間ジゃナい、ニおイで分カる、オ前のこトズっト見テタのに、オ前、普通ニ歩いテた、曲がリ角ダって普通ニ曲ガっタ、目ガ見エなイなら、ソンなこトアるワけナい」

 そりゃあ、そうだ。事前に説明を受けた運転手だって心配したくらいだ。成仏する前に少しは説明してやろう。

 「私は生まれつき目が見えないの。後天的に目が見えなくなった人間は大変だけれど、先天的ならあまり困らない。詳しいことは分からないんだけど、赤ちゃんが成長する過程で、脳の聴覚とかの部位が、本来視覚に使われるはずだった部位を食べちゃうんだって。それで耳とか位置の感覚とか、そういうのが異常に発達してる。自分の足音の反響で壁までの距離や周りの地形だって分かるし、お仕事だから一応覚えてきたけど、本当は地図が無くっても困らない……って、こんな事言って分かるのかな」

 「嘘ダ、嘘ダ、嘘ダぁアア……」

 「それよりあなた、やらなきゃいけないことがあるでしょう?怪異には怪異の『ルール』がある。貴女は私の目を取った。ならきちんとその目を自分に嵌めて、腐食するまでつけてないとね」

 「イ、嫌、嫌、嫌ダ、ァ、ア、ァァアアァアア」

 自分で自分の腕を掴む音。衣服の擦れる音。髪をふりみだす音。女が衝動に抗おうと必死に抵抗しているのが、音で「視える」。

 そして色んな音の最後に、ただ、ちゅぽんと音がした。

 「ア、ア、腐レ、腐レ、速ク腐レえェ……」

 「光に弱いんでしょう、貴女。懐中電灯程度の光にも怯えている。それなのに軍事用のフラッシュバンを改造したものなんて、内側から食らったらどうなるのかしらね」

 「アぁ、アぁ、ヤめロォオオ……」

 「さようなら」

 私が起爆スイッチを押すと、目の前でポンと小型の閃光弾が弾けた。ビチャビチャと何かが飛び散った音が聞こえて、そして何も聞こえなくなった。

 「あんたら怪異の類は力を過信しすぎるけど、あんまり人間を舐めないことね」

  

 私はポケットからスマートフォンを取り出し、慣れた手付きで操作する。上司とビデオ通話を始めて、始末完了かどうかの確認だ。私は女のいた方向にスマートフォンを向ける。

 「ご苦労だった」

 上司が私のことを労う。

 「それより、どんな感じですか。地面に倒れた音はしませんでしたけど、全部吹っ飛んじゃってます?」

 「いや、残ってるな。地面に棒立ちで、首の辺りから上が全部吹き飛んでる。いずれにしても、無害化完了だろう。よくやった。後の処理は近くの班がやるから少し待っていてくれ」

 「分かりました」

 「しかしなんていうか、すまなかった」

 「何がですか?」

 「いや、だからその……君の障害を、利用したことだよ。両目が見えない人間なんて組織にも多くない。君にしか出来ない仕事だった。それでも、本当にすまない」

 「そんなことですか。気にしなくて良いんですよ。むしろこの生まれを役に立てられて私が嬉しいくらいですから」

 「……そうか」

 「そういうものです」

 「それじゃあ、もうすぐそっちに……うん?」

 「どうしました?」

 上司は答えなかった。不気味な沈黙が、あたりを支配した。

 「……逃げろ」

 「えっ?」

 上司の声は震えていた。

 「逃げろ……逃げろ!!! 今すぐに逃げろ。ターゲットの首が蠢いている」

 程なくして、グジュグジュと何かが動く音が私にも聞こえてきた。

 「ターゲットの首から亀裂が、亀裂が見える……あれは、なんてことだ、あれは、口だ、巨大な裂けた口だ!!! 作戦は失敗だ、今すぐそこから逃げるんだ!!!」

 

 私は急いでその場を走り去ろうとしたが、ピクリとも体は動かなかった。

 

 まるで、コンクリートで体を埋められたようだった。

 

 グパァ、と、大きな何かが目の前で開く音がした。

 

 「首ィ、首ィ、足リ無いのォオオォ……。右モ、左モ、関係無ィいイイ……」

 

 あの女の声がした。

 ずる、ずる、ずる、と這い寄ってきて、私は肩を掴まれた。

 

 「あンタら人間ノ類は知恵ヲ過信しスギルケど、あンマり怪異を舐メなイコトねェエエエ……」

 

 何かがグパァと大きく開く音がもう一度聞こえて、そして、それが私が人生で聞いた最後の音になった。

2020年06月04日 その町はまるで巨大な壁が向かい合っているようでした。

 この世ならざる者は、いつだって私達のすぐ側にいるのです。
 
 朝、私は目を覚まします。絶対に寝返らないために手首と足首につけた金具を外し、手術台から起き上がるようにして朝日を浴びます。部屋の正面の壁はガラス張りで、そのまま外に繋がっています。覗こうとすれば私の着替えるところも見放題でしょうし、何ならドアに鍵もかかっていませんから、プライバシーが無いどころの騒ぎでは無いのですけど、今この部屋に立ち入ろうとした者は間違いなく死を迎えるでしょう。覗き見だけでもかなりの確率で死ぬでしょうから、そんなことをする馬鹿はいないでしょう。もしいたとしたらその勇気を讃えたいくらいですが、きっとそんな人は数年もしない内に死ぬでしょう。
 私の背後にある壁だってガラス張りですが、少なくとも部屋の左右の壁は普通のつくりで、他人の視線を遮断してくれています。それだけで私のプライバシーを守るには十分なのでした。
 慎重に前だけを見据えながら、洗濯機とクローゼットと浴槽を横目に通り過ぎ、部屋の正面にあるもう1個のクローゼットで着替え、脱いだパジャマをやっぱりもう1個ある洗濯機に入れると、カニ歩きでドアの前まで移動して、屈んでバッグを手に取り、寮室から廊下に出ました。化粧なんてしませんし、出来ません。それは覗きなんかよりもずっとずっと死ぬ確率の高いことでしょう。それにこの近辺には鏡すら滅多と無いのです。
 
 廊下に出るとすぐ目の前にエレベータがあります。このエレベータも私の部屋のようにあまり普通ではないのでしょう。やっぱりガラス張りなのもそうですが、この廊下は100メートルくらいありそうだというのに、それと全く同じ長さの横に広いエレベータなんて他に聞いたことがありません。
 同じように着替えを終えた生徒達が、私と全く同じ構造の部屋から出てくる音が聞こえます。「おはよう」「おはよう」と声がします。私も友人達におはようと言います。それでも誰一人として顔を合わせようとはしませんし、私だって絶対に見たくありません。ただその場で棒立ちに、エレベータが来るのを待っているだけです。
 「ムージ、おはよう」とすぐ隣から声がしました。「おはよう、シーサ」と返事をします。彼女と私は小さい頃からの仲良しでした。それでもお互いの顔を見合わせたこともありませんでした。
 エレベータが来たので、みんなで乗りました。一階に向かうあいだ、横一列に並んだ誰もがただじっと前を見ていました。あの一枚の巨大の壁のような、学校とか、職場とか、そういうのが全部一体になった、壁のような建物を、目を逸らさずじっと見ていました。そしてそれは今まさに出てきた建物とそっくり同じ形なのでした。
 一階につくと、前側のドアがシャッターのように開きました。私達は足並みを揃えて目の前の建物に向かいますが、もしこの姿を観察出来たとしたらきっと軍隊か何かのように見えるのでしょう。
 
 人工太陽の光がだんだんと近くなってきます。人の目には害を成さない程度の光だそうで、目を痛くした事は生まれてこの方ありません。
 「ねえ、ムージ」
 歩く私に、シーサが話しかけます。
 「なあに、シーサ」
 私が返事をします。
 「私達、このままこんな風に、友達の顔も知らないで死ぬのかな」
 「またその話?」
 シーサは何故だか知りませんが、いつもその話をするのでした。生き伸びるより大事なことなんて、この世にあるものでしょうか。私はそのように答えました。
 「そうだけどさ、やっぱりしてみたいじゃん、普通の生活とかいうのをさ。例えばお喋りとかだって、こんな風にするんじゃなくってさぁ……」
 私とシーサは毎日楽しく話しながら学校に通うのですが、お互いに顔をまともに見たことはないのです。
 「顔も知らない小さい頃からの友達なんて、そんなことってこの世にあるの?」
 「今ここにあるじゃない」
 「それはそうだけど……」
 シーサが頬を膨らませる音が聞こえてきそうでした。実際に膨らませているのかどうかは確認したことがないのですけど、多分膨らませているのだと思います。シーサは随分と普通の生活に憧れるものです。
 そんなこんなしている内に、壁のような建物につきました。私達はまたエレベータに乗ります。目的の階で降りると、すぐ目の前に私の勉強室の入り口がありました。全員自分の部屋のちょうど真正面に目的の部屋があるのです。そのように配置されているのです。左右を見なくていいようにです。そして私の勉強室は、やっぱり手前と奥がガラス張りでした。
 「それじゃあ、また帰り道で」
 私がそう言うと、シーサが答えました。
 「ねえ、ムージ」
 「なあに」
 「今日の帰り、ちょっと話したいことがあるんだけど、良い?」
 「今じゃだめなの?」
 「うん、ちょっと長い話」
 「分かった」
 「ありがとう。それじゃ、また後で」
 シーサが私に相談なんて珍しいな、そう思いながら、私は勉強室に入りました。
 
 勉強室の中には今日の教科書が置いてあって、私は黙々と勉強を始めました。
 何時間くらい経ったのでしょうか、一つだけどうにも分からないところがあったので、私は手探りで呼び出しボタンを探して押しました。プルルルルルと着信音が鳴り響いて、呼び出し中であることを告げました。
 電話の待機音だけが部屋の中に鳴り続けます。しばらくするとブツっと音がして、天井から「先生」の声が聞こえてきました。
 「ムージさん、どうしましたか」
 私は机に備え付けられたマイクに向かって喋りかけました。
 「今日の範囲でわからないところがあって」
 「どこが分からないのか教えてもらえますか」
 「高校2年生用の数学の教科書の、72ページ目の、問題2です」
 「教科書を取ってくるので、少し待ってください」
 先生が席を立つ音が聞こえて、少しして本棚から一冊抜く音が聞こえました。いつもそこから先が面白くて笑ってしまうのをこらえるのですが、先生が慎重に慎重に、後ろ歩きで転ばないように下がって、椅子が自分のすぐ後ろにあるのを足で蹴って確かめて、慎重に腰を降ろすのが全部音から分かるのです。
 「ええと、この問題はですね──」
 普通の学校のように、先生が教壇に立って生徒を見たりしたら、それだけで先生も生徒も何人か死んでしまうかもしれませんし、先生が横について勉強を教えるには少し生徒の数が多すぎるので、このようになっているのも仕方のないことでした。
 「──ということなのですが、分かりましたか」
 「はい、ありがとうございます」
 「それでは」
 ブツッと音がして、電話が切れました。
 
 それじゃあ続きを始めよう、そう思った矢先でした。ザアアと天井からノイズのような音が鳴り、段々と大きくなっていきました。ああ、せっかく良いところだったのに、私はちくしょうと思いました。中間消灯の合図でした。このノイズには昔はサイレンの音が使われていたそうなのですが、ビックリする人が多く、たまに事故で死んでしまう事があったので、こういう形式に変わったのだそうです。
 「この音声が全ての人間に聞こえていることを確認するため、確認ボタンを押してください」
 私は言われた通りボタンを手探りで見つけて押しました。ピッと音が鳴って5分ほどすると、次のアナウンスが流れてきました。
 「全員の確認が完了しました。消灯します」
 ガラス越しの人工太陽がゆっくりと暗くなっていき、だんだんと何も見えなくなり、部屋の中に完全な暗闇が訪れました。
 「消灯完了。反転して、安全確認ボタンを押してください」
 何も見えない中、私は椅子を立つと、その日初めて後ろを振り返りました。部屋の出口の横にあるボタンを押して、私の安全を伝えました。
 「全員の確認が完了しました。点灯します。今日も一日お疲れさまでした」
 部屋に光が差し込み始め、視界の遠くでは、もう一対の人工太陽が私達を照らしていました。一方私の後ろでは、もう確認することは出来ませんが、さっきまで光っていた人工太陽はただの黒い球体となって空に浮かんでいることでしょう。
 私は部屋を出ると、やっぱり横にだだっぴろいエレベータを待ちました。

 シーサが隣の部屋から出てきました。でも、何も喋りませんでした。そういえば、朝何か話したいことがあるとか言っていたなと、私は思い出しました。シーサはとてもおしゃべりで、こんな風に黙っているなんて珍しいのです。きっと、何か重い悩みなのでしょう。
 「シーサ」
 私が声をかけました。
 「朝言ってた相談って、なあに?」
 シーサは暫く黙ったままでしたが、こう答えました。
 「ごめんね、なんでもないの。やっぱり忘れて」
 「そっか」
 あまり深入りしないほうが良いのだろうな、そう思って私はそれ以上何も聞きませんでした。
 
 帰り道は何も喋りませんでした。シーサが何も言わなかったからです。今日気付いたことですが、私はあまり自分から話すタイプではないようでした。シーサが話を振ってくれるから毎日楽しく喋れるのだろうか、そんなことをぼんやり思いました。 
 エレベータに乗って、自室の前まで着いても、やっぱりシーサは一言も喋りませんでした。「また明日ね」と私が言っても、返事はありませんでした。どうしたのでしょう。せめて明日、少しでも元気になってくれていると良いのですが。
 私は自分の部屋に入ると、バッグをそこに置きました。部屋の向こう側には朝と同じように人工太陽の一対が見えます。私は浴槽に向かって歩いていって、洋服を脱いで前の方に投げて、お風呂に入りました。次に振り返ることなくクローゼットを開けてパジャマに着替えて、洋服を拾い上げて洗濯機に入れて、眠ろうとベッドに向かいました。
 ベッドといっても、これだってきっとあまりに奇妙な形態のものなのでしょう。それは傍目には拷問具かなにかのようにしか見えないでしょう。床から足枷が、天井から長い手枷が伸びていて、それを自分で嵌めると床からベッドが立ちのぼってきます。全員の装着が確認されると人工太陽の照明が全て落ちて、本当の夜が訪れ、ベッドが倒れ、180度回転し、私が朝起きた時の姿勢になるように作られているのでした。
 
 私が足枷から嵌めようとした時の事でした。

「……振り返らないでね」

 後ろから、驚かせないようにと、最大限注意を払ったのが分かる、静かで、それでいて何か凛とした声がしました。
 シーサの声でした。
「危ないよ、シーサ」
 どうして私の部屋に入ったのかより前に、私はシーサの事を心配しました。少しでも部屋から出る手順を間違えたら、シーサは死にかねないからです。それなのにシーサは、安全にここから出るどころか、死に向かって歩を進めるかのように、私に近づいてきました。
 シーサは私を追い越して、人工太陽に照らされて、シーサの影が私を覆って、そして、
 
 私の方を、振り返りました。
 
 振り返って、しまいました。
 
 「あのね、ムージ」
 
 生まれて初めて見るシーサの顔は、とても綺麗なものでした。
 
 「こんな生活をするくらいなら、死んだ方が私はマシなの」
 
 シーサが私を抱きしめました。
 
 「あのね、だって、私、ムージのこと、す──」
 
 その瞬間でした。
 私は前からだけでなく、後ろからも抱きしめられるのが分かりました。
 それは、シーサの影でした。
 何かドロドロとしたものが私の足元から湧き上がって来ました。それはシーサを覆い尽くそうと彼女に雪崩れ込みました。必死に止めようとしましたが、私の体も動かせないほど、あまりに猛烈な勢いで、部屋を埋め尽くすように「影」が湧き上がってきました。
 人工太陽の光も届かなくなるくらいシーサの影は部屋中に広がって、すぐにシーサの体は見えなくなりました。黒いゲル状の何かがシーサの体を覆い終わると、ずるずると床の中に潜り込んでいきました。
 
 全てが終わって光が刺した部屋には、シーサはいませんでした。
 
 シーサはもう、この世のどこにもいませんでした。
 
 
 この町で自分の影を直視した者は、例外なく影に飲まれて死ぬのです。
 
 
 私はあまりに突然のことに呆然として、何を考えているのかも分からなくなりました。
 
 どれほどの時間が経過したのかも分からないことでした。
 あのザアアとしたアナウンスが始まり、私に告げました。
 
 「ムージさん、就寝の時間です。ベッドに就くセットアップを行ってください」
 
 私は床にへたりこんだまま、何も分かりませんでした。
 何か冷たい水のようなものが、頬を一筋伝いました。
 またどれほどの時間が経過したのか分からない頃に、あのアナウンスが聞こえました。
 
 「ムージさん、ムージさん。そこにいますか。緊急事態発生。緊急事態発生。住民が影に飲まれた可能性有り。住民が影に飲まれた可能性有り。場所は──」
 
 アナウンスの意味も、頬を伝う涙の意味も、私には分かりませんでした。

2020年06月03日 あの鳥達のさえずりも、間もなく断末魔に変わります。

 町中に響くその鳴き声は美しい。しかし本当に美しいのは、透き通った青白い羽根である。人前には滅多と姿を表さないが、もし見つけたら何か幸運でもあるという。綺麗な鳥の鳴き声だけが聞こえる、どこかの町でのことでした。
 ある小学校において、奇妙なことを訴える生徒が現れるようになりました。あの鳥達が何を話しているか分かるというのです。
 最初は先生達も、子供はたまにそういうロマンチックで空想的なことを言うものだと、むしろ愛らしく受け止めて気にかけませんでした。それでもあまりに同じことを言う子供があまりに多いので、それだけ少し不気味に思っていました。
 しばらくすると子供達は人間の言葉を話さなくなりました。代わりに喉から出る音は、フルートのようなあの綺麗な鳥の鳴き声そっくりなのでした。先生達はイタズラの度が過ぎていると生徒達を叱りましたが、すぐにやめました。どうも叱られる生徒達の困惑した反応を見るに、こちらが何を言っているのか、おふざけではなく本当に理解出来ていない様子なのです。代わりに生徒達は顔を見合せ、鳥の鳴き声のようなものをお互いに発しあっています。まるで鳥の言葉しか話せなくなったのだろうかという有様でした。
 親達も狼狽しましたが、精神病院に連れて行ってもこんな例は見たことがないと匙を投げられるばかりでした。精密検査を受けさせても脳に何の異常もないのでした。
 しかしあれこれ手をこまねいている内に、特に問題はなくなりました。生徒達は以前のように話すようになったのです。症状はとても一過性のようでした。親も子供も先生もあんな奇妙なことは忘れて、集団ヒステリーでも罹っていただろうかと一連のことは忘れてしまいました。
 一つだけ変わったことがあるとすれば、その学校の誰もが以前より鳥の声をよく聞くようになったことでしょうか。この町にはこんなにもたくさんの綺麗な鳴き声があったのに、社会の喧騒に追われて今までずっと気にかけてもいなかったのかと、大人達は少し反省しました。
 しかし不思議なことに、だんだんと鳥達の囀りは聞こえなくなっていきました。町の人達はみんな、珍しい鳥だから絶滅でもしたのだろうかと不安がっていました。
 そんな折のことでした。
 その小さな町は、突然軍隊に包囲されました。とても、とても奇妙な軍隊でした。
 誰もがガスマスクをつけていて、とりわけ、耳の部分になにか特殊な機械をつけているのでした。
 銃を持った兵隊に囲まれ、これは一体どういうことかと訪ねようとした男の人は、少し口を開いた瞬間に一瞬で撃ち殺されました。町はすぐにパニックになりました。
 1人、また1人と、次々に住民は撃ち殺されていきました。せめてもの安全を求めて、誰もが学校に避難しました。
 一体これはなんなんだと、誰かが学校の中から叫びました。しかし兵隊さん達は聞く素振りもなく、何か波形のようなものが映った緑色のモニタをじっと見ていました。
 暫くして、何か諦めた様子で、偉い人が悲しそうに首を縦に振りました。すると武装した兵隊さんたちは一気に学校へと突入していき、人を見つけては撃ち殺して行きました。
 弾丸が一度放たれる度に、銃には似つかわしくない美しいフルートのような音が血飛沫とともに舞い上がりました。
 
 やがて町からなんの音もしなくなると、青白い翼をはためかせ、何かの群れがケラケラと笑いながらどこかへと飛び立っていきました。