2020年06月02日 「ある町の赤い都市伝説」

 私たちは確かに、この赤い線と共に暮らしてきました。
 それは赤い糸のようなものでした。赤い平面が無秩序に空中に現れ、クルクルと回転して、突然神様か何かに端っこを引っ張られたかのようにキュッと糸のようになり、程なくして見えなくなる。それだけがこの小さな町の私達住民が知っていた全てのことでした。
 平面と糸の2つの形を取りますが、どうせ同じものですから、赤い異形と呼ぶことにしましょう。
 平面である状態の大きさは普通の下敷きほどしか無いのですが、それが単語を暗記する時に使う赤いシートなどと違っていたのは、まず何よりもグロデスクで美しい、血液を連想させるような澱んだ色彩でした。そして収縮して長い糸になると、学校の教室の半分くらいにはなるのでした。
 もちろん私たちの誰もが最初はコレが存在するなど信じていませんでした。そんなわけのわからないもの、この世にあるわけがありません。それでもこの平面が存在を始めてからというものの、「この町は呪われている」、「糸に挟まれたものは切断される」、「実はあの四角形は冥府に通じている」、「将門の祟りだ」、怪談のようなものから荒唐無稽なものまで様々噂が都市伝説のように広まりました。それでもやっぱり誰も信じやしませんでした。科学的だとか非科学的だとか、そんな話をする前から、そもそも見たと言う人がほとんどいなかったのです。
 ただいつの世も物好きな人というのはいるものでした。カメラを首からぶら下げて歩く人が少しずつ増えてきました。しかし私が知るこの異形の性質故に、誰一人としてその奇妙な赤い線を撮ることは叶わなかったのです。
 この異形は、普通の写真には映らないのです。
 奇妙な噂が流れ始めてから2ヶ月くらいでしょうか、俺は確かに撮った、私は確かに見た、そんなことを言う人の数は少しだけ増えましたが、写真もありませんのでやっぱり信じる人はいませんでした。テレビ局の回し者か、何かの新興宗教の勧誘か、はたまた新手の健康法か、まぁ何かそういう類のものだろうと誰もが思ったのです。今思うと、自分は緑色の円を見たとか、線じゃなくて棒だったとか、そういう人もいましたから、本当は見たことの無い人もふざけて便乗したりしていたのでしょうね。
 
 これはあまり覚えている人は少ないのでしょうが、こんな事態になってしまう前に、本物の騒ぎになったことが一度ありました。
 ある家で見つかった、あまりにも奇妙なバラバラ死体。いえ、「バラバラ」と言うのは変かもしれません。何しろ切断面は1つしかありませんでしたから。それでもバラバラ死体なんて言葉を思い出してしまうくらいにはその女性は真っ二つだったのです。
 あまりにも奇妙だったのはその切り裂かれ方と、発見された場所でした。
 切り裂かれた片方の端は女性の頭頂部で、右目の少し上くらいから始まっていました。もう片方はちょうど腰の左側でした。私の記憶が正しければ、一体どんな工業用機械を使えば再現出来るのか分からないほど異様に綺麗な切断面だったと新聞にも書いてあった気がします。
 しかしその死体の不審さをますますおどろおどろしくしていたのは、死体の発見された場所でした。自宅の、それも自室だったのです。その家族が真っ先に容疑者になりましたが、遺体の写真を見て、例えば嘔吐するとか、それに類するものを全員が示したこと、なにより殺人方法の不可能性から、すぐに全員容疑者から外されました。最終的な扱いは不審死になりました。
 一時期はあの赤い線の仕業だとかいう話も広まりましたが、そんな噂もすぐにかき消されました。不謹慎だという人もいましたし、何よりもって、マスコミというのはいつもお涙頂戴に飛びつくものですから、紙面に挙がる遺族の声、声、声。それがどれほど人間の尊厳を踏みにじって上に立つものであるかも知らずに、人々は都市伝説への関心を失って分かりやすい悲劇に耳を傾けていきました。
 事件のことは、世界には奇妙なこともあるものだとみんな忘れていきました。忘れなければ、こんなことにもならずに済んだかもしれないでしょうに。
 その女性の所持していたコンピュータの中には、今では皆さんの知るところでしょうが、あの赤い異形をハッキリと映した写真が保存されていたのです。それはもう、何枚も。平面の状態も、線になった状態も、あるいはその中間の地点も。いくらでも。
 
 件の死体の発見から5年くらい経過した頃だったのでしょうか、この噂が息を吹き返したのは。町中にあの赤い平面が突然にたくさん現れ始めたのです。それも、人々が写真を撮ろうとする時に限って。
 やっぱりあの噂は本当だった、とか、少し遅れた恐怖の大王だ、とか、色んな事が言われていましたが、どれもどうでもいいことでした。その赤い平面は結局何なのか、どうして、どうやって出現するのか、それが分かっていなかったのですから。何より重要なこととして、目撃件数に反して、やっぱり写真には1枚も映らなかった。あのコンピュータの中に既に存在していたものを除いて。
 それでも、当時は気分が高揚したものですよ。殺せるかどうかなんて知りません。というか、殺すも殺さないも無いでしょう。相手は超常現象なんですから。それでも私は、ようやく姉の仇が討てると気分を昂ぶらせたものでした。
 そちらは忘れているかもしれませんが、そこの警官の方、会うのはこれで2回目ですよ?あまりにも私の見た目が変わってしまって気付きませんでしたか?まあ、だからといって私にはもうどうすることも出来ませんけど。身内の死んだ人間を監禁し何日も何日も怒鳴りつけられたことへの怨みではなく、ただ本当に何も出来ないという話です。
 
 時間もありませんから、話を続けましょうか。次にこの町で起こったのは、身体の一部を切断された患者の大量発生です。私の姉のように即死した人もいました。そして誰もが証言したのは、「あの線に切られた」とだけ。警察も医療関係者も困り果てましたが、すぐに事態は収束しました。誰もあの赤い平面に体を差し込むことが無くなりましたし、何より小さな町でしたから、事故が起こらなくなるのに時間はかかりませんでした。色んな週刊誌が噂を嗅ぎつけてこの町を訪れましたけど、結局町の外に情報が出ることはありませんでした。写真の一枚も撮れないんじゃあ、誰にも相手なんてしてもらえません。
 それでも毎日のようにアレを見る私達にとってはこの異形の存在は紛れもないリアルなのでした。あの赤いナニカを見たら近寄らない、それだけを気をつけて生きてきました。
 
 ああ、でも、そういえば、もう一件だけありましたね。姉が死んだ時なんかより、ずっとニュースになったことが。2010年頃だったでしょうか?8階建てのビルの「倒壊」────倒壊というより、「真っ二つに切られた」なんて感じですかね。それは6階と4階を切断面の端として、これまで発見された患者と同じように、確かに鋭利に切られていた。そして、滑って崩れ落ちた。
 発見された死体は倒壊したビルに務めていた警備員と、深夜の3時に残業をしていた1人の社員。そして社員の遺体からのみ何かに切られた跡がかろうじて検出された。警備員の遺体には潰された痕跡以外何もなかった。
 
 でも、やっぱり謎は謎のまま。
 
 噂が更に沸騰し、当時はガラケーが普及し始めた頃。写真という行為が手軽になった頃。誰もが写メールであの赤い平面を撮影しようとしました。それでも誰も撮影出来ませんでした。
 
 だけど私はひたすらに追いましたよ、それはもう追いました。随分と歳の離れた姉でしたが、10年くらい経って私は姉の歳を追い越そうとしていました。そして幸運なことに、どういうわけか赤い平面はどんどん町中で見られるようになっていきました。
 私は平面にまず指を入れました。糸がキュッと締まり、私の左手の人差し指の第一関節までは無くなりました。どうせなら小指にしておけば困らなかったのにと、どうでも良いことを後悔したものです。それから平面を見つけては第二関節、指の根元、人差し指がなくなったので今度は中指を少しずつ、量が少ないから何も分からないんじゃないかと指をまるごと一本、まだダメだというなら手首を、肘を、肩を。だけど何度病院に搬送されて一命をとりとめてもあの赤い平面のことなんてちっとも分かりやしませんでした。今思えば自棄になっていたのでしょうね。
 私が両腕を失い、深夜、あれは何時の出来事だったのでしょうね、まあ、とにかくふらふらとさまよっていました。そんな私の目の前にあの赤い平面が現れて、クルクルと回り始めたのです。疲れ切った私はただ思いました。「姉に会いたい」と。そう思いながら平面が収縮する瞬間にそこに飛び込んだのです。
 私は数瞬気を失い、起きた時、私は生きていました。胴は切断されていませんでしたし、どうも体には何の傷も無いようでした。あまりに疲れて夢でも見ていただろうかと家に帰ると、私は気がつけば、姉が死んでからずっとそのままである部屋のコンピュータの前の椅子の上に腰掛けていました。まるで、そうするのが当然であり、私の人生として自然である動作かのように。
 義手の動きはぎこちがありませんでしたが、それでもマウスを使うことくらいは出来ましたし、何故だか姉のパソコンのどこに何が入っているのか、私は全て知っていました。どこでそんな事を知ったのかと考えてみたら、私は、その瞬間から、姉の記憶であろうもの全てを脳から引きずり出せるようになっていたことに気付いたのです。
 あれこれ考えて、私は十分な確度で推測するに至りました。この平面がどういうものなのか、どうして姉が死んだのか、どうして私が生きているのか。
 これは両親も知らないことですが、コレを生き残るようには思いませんのでもう話してしまいますけれど、姉は重度の社会不適合者で、自殺願望を抱いていました。そんな姉の目の前に人体を切断してくれるという赤い平面が現れ、身を飛び込ませて、そのまま死にました。
 この赤い平面は実際のところ、単に中にいる人間の期待を叶えるものでしか無かったのです。切れるはずだと思い込んで糸が収縮すればそのまま切れる。この平面の最初の犠牲者である姉があのような死に方をした事によって、あるいは都市伝説によって、この小さな町の住民はいつしかあの平面が単に物質を切断するものだと強烈に思い込んでいたのです。それで誰の体も切断された。それだけの結果しか起こることは無かった。私が平面に指や腕を差し入れた時も、私はそれが切れることで何かが分かることを期待していた。だから体が切断された。それだけのことだったのです。
 この平面にも出来ることと出来ないことはあるようで、何しろ異形のものですから、「理解したい」と私が願って指を差し入れたところで、己の存在についてヒトである私に伝える事は全く出来なかったのでしょう。そして叶えられる範囲にある「指を切断する」という期待だけが実現された。私はそう理解しています。
 この異形が写真に映らない理由ですか?とても簡単です────姉と同じで、社会不適合だったということです、推測される限りにおいて。この異形はカメラの前にしか姿を表さないのですが、誰かの輪に入ろうとする癖に、いざたくさんの人に見られるとなるとすぐに引っ込んでしまう。どうにも親近感を覚えてしまいますね。「他の誰かに見せよう」と思って撮影された写真には、その姿を残さない。
 このような異形にも感性とか性格とか、まぁ心みたいなものはあるのですかね。他にどんな類のものが存在するのかは知りませんが、他の異形と一緒にいるところでは上手くやっていけないのでしょう。だからこんな地球の小さな町になんて現れた。まぁ、他にどんな異形がどれほど存在したとして、今ここにいらっしゃる方の大半にはもうすぐ関係のなくなることでしょう。それとも一人すら残りもするのでしょうかね。
 さておき、この異形は他人に姿を見せようとして撮影された時には自らの姿を映させないのです。それに比べて姉ときたら、まぁ世間から言えば理解のされない変な人でしたから、このよく分からない存在に親近感を覚えていたのです。あなただけが私の友達。ええ、よく「思い出せます」とも。私が「姉に会いたい」と願って最大限叶えられた事は、生前の姉の記憶全てを私に転送する事でした。姉は撮った写真を誰にも見せる気が全く無かったので、この異形の撮影が可能だったというわけです。その事をもってますます姉は自分だけが独占しているこの異形への愛を強めていき、何枚でも撮ることが出来たのです。
 しかし姉は強烈な自殺願望の持ち主でした。そしてそれは実行に移され、未遂に終わり、けれども姉は死にました。自殺の直前に遺影を撮ろうとしていた姉を覆うように異形は出現してしまったのです。それはきっと、異形にも止められなかったのでしょう。そして姉の「死にたい」という願望は叶えられ、彼女は都市伝説の通りに真っ二つになって死にました。我々に理解の出来るような心が異形に存在するのだとしたら、一体どのような気持ちで姉を殺してしまったのでしょうね。
 ビルの倒壊のことですか?簡単なことですよ。深夜3時まで1人残業していたような人ですから、監視カメラからあの異形が現れた時に、もう何もかもどうでもよくなってしまったのでしょう。いっそ俺の体ごとビルまで真っ二つになってしまえ、そうやって飛び込まれた平面は願望のままに膨らんでそのままビルを切ったのでしょう。
 ガラケースマホが普及して、あるいは監視カメラの設置台数が増えて、カメラの数が爆発的に増えてからというものの、この町に異形が出現することも増えた。たったそれだけのことですよ。
 
 さて、私はどうすれば良いのでしょうね。復讐の仇は実のところ、姉が唯一心を許した相手であり、そもそも姉は最初から死ぬ気だったのです。私は宙ぶらりんになりながら、姉の記憶を思い返しました。人生を追体験するのは、どんなに早巻きでも、人には伝えられないような吐きそうな思いのするものでしたよ。
 そして私は知ったのです。姉が自殺願望を抱いたのは「普通」の人間に囲まれて生きるのが嫌になったからなのだと。だから姉は死ななければならなかったのだと。姉はいつも世界中が自分のようになればいいのにと願っていたのだと。だから私は、それを叶えることにしました。しかしその時にはまだ文明が私の願望を実行出来るほど進んでおらず、更に10年の時を待たねばなりませんでした。ようやくです。今みなさんに見えている景色は、ようやく私の姉の願望が、あるいは姉と同じような人々の願望が叶う瞬間だということなのです。
 その性質を理解した私は、異形に体を投げ入れて最初にお願いをしました。「私以外の願望を叶えないでほしい、私以外をただ切断する存在であってほしい」と。そしてあいも変わらずこの小さな町で、事故の件数も0になって随分と時間が経ち、いつしかこの異形はスピード違反をする車と同じくらいの危険しか持ち合わせていない日常的な存在になりました。
 
 あれから随分と時間が経ちました。
 
 そして、ようやく私の、姉の願望を叶えるに十分な文明が揃いました。
 
 昨夜私は、10年ぶりに異形の性質を変更しました。初めての友人にして殺めてしまった姉の身内ですから、あるいは姉の記憶を持つ私はある意味で姉そのものですから、私の願い事なら、この異形は少し大変なことでもどうにか聞いてくれました。異形が出現する範囲をこの町から世界中に変更し、対象となるカメラを地球周回軌道上で今この瞬間にも地球を撮影している無数の人工衛星全てに設定したのです。今世界中を無数の赤い壁がせわしなく動いているのはそれが原因なのですよ。これは実のところ壁ではなく、あの小さな平面がとてつもなく大きくなっただけのもので、もうすぐ一本の線に全てが収縮されるのです。「普通」である人間は皆死に絶え、姉のような人間だけが生き残るのです。
 しかし、こんな与太話を誰が信じますかね。今まさに自分の体の上を何千枚もの壁が通過し続けていても、この町の外にいる人間には何一つそれが見えないのですから。私達はいつもこの町で異形と一緒に暮らしてきましたし、異形もまたこの町の人々と一緒に暮らしてきました。最後くらいはと思って、社会不適合のこの異形の思い出のためにその姿が見えるのはこの町の人間達だけにしておいたのです。
 もしこの異形の存在を伝えることが出来るなら町の外にいる大切な人も助かるでしょうが、一体どうやってそれが出来ますかね。何しろこの異形は「他の誰かに見せようと思って撮った写真には映らない」。さっきから皆さんがどう頑張ってカメラの設定をいじくり回しても何の効果も無かったのはそれが原因ですよ。
 一つだけ悲しいことがあるとすれば、私は姉の記憶や思想を理解はしましたが、生まれからして私は姉のような人間では無かったということです。何の理由もなく身内だからという理由で姉を慕い、何の理由もなく不審死を遂げたからというだけで取り憑かれ、何の理由もなく復讐に盲目的になるくらいには私は「普通」の人間であったということです。この世の大勢の人間と共に、何千枚の壁に引きちぎられて、もはや切断ではなく肉を轢き潰すようにして私は死ぬでしょう。
 私の目の前にいる皆さんの誰か一人でも私の姉のような人間であって、「普通」ではなくて、生き残れることを祈っていますが、きっとそれは叶わないでしょう、何しろ小さな町ですから、普通でない人間はきっと彼女一人だったでしょう。まぁ、せめて祈っておいてください。
 ああ、収縮が始まります。私には分かるのです。何しろこの世でたった一人の姉の友人でしたから。私はあと10秒もしない内に粉微塵になって、いえ塵も残らないほどバラバラになってこの世から消えるのでしょう。それでは皆さん、さようなら。一人でも生き残れるこ