2020年06月15日 命は、あると思えば、そこにあります!

 「あら、変ね。こんな大きさだったかしら……?」

 リビングのテーブルで咲く小さな赤いバラが少し成長したのを見て、ある母親は不思議に思いました。だってそのバラは、造花だからです。

 家に何か彩りが欲しくて観葉植物を買おうと思ったはいいものの、場所を取ると後で困るかもしれないし、手入れをするのが面倒だし、要らなくなったりしたら処分するのも心が痛みそうだし、じゃあ観葉植物はやめて花でも一輪買ってみようかとも思ったけれど、美しい花がしわがれていくのを見るのはどこか自分と重なって自己嫌悪に陥りそうで、それで小さな造花なんてわざわざ買ってきたのです。

 この造花は母親にとって素晴らしい買い物でした。場所を取らないし、手入れも要らないし、枯れないし、そして何が一番良いって最初から生きていないのです。お花屋さんで店員さんがその瞬間まで生きていた花を鋏で断命するのを見てちょっと心の痛みを感じるだろうし、それを体験するのすら厭ったのでした。

 そんな理由で造花なんて買っておきながら、やっぱり愛着でも湧いたのでしょうか、「流石にかわいそうだから」なんて理由で造花に水をさしていたりもしたのでした。

 さて経緯はどうあれ造花ですから、壊れることこそあれ、買った時より成長することなんてあるわけがないのです。

 これが普通の植物であれば、茎だけでも成長する植物があるとか、お花屋さんから買ってきた後に少しだけ背丈が伸びるとか、そういう事があるのはこの母親は知っていましたから、「造花 水 成長」なんて頭でもおかしくなったようなキーワードでgoogleを調べてみましたが、当然そんなことあるわけもなく、ヒットするのはyahoo!知恵袋で「質問者さんの頭は大丈夫なのでしょうか」なんて回答がベストアンサーになったページばかりで、まるで自分が馬鹿にされたような気分になり少し腹を立てたのでした。

 

 ただ、この母親についてだけは、きっと世界で唯一、少し話が違ったのです。

 その造花は、日に日に明らかに大きくなっていたのです。

 

 それでも最初は母親も、最近仕事が忙しくて疲れているものだから、活けた時に適当なコップを使ってしまったかしらと思っていました。きちんとバラの大きさに見合うよう、カクテルに使うような大きめの容れ物を探して移し替えました。

 ところが仕事から帰る度にバラが大きくなっているように見え、実際、コップを替えた時は底にかろうじて茎がついているくらいだったのに、気が付いたときにはコップから3cmくらい茎が顔を出しており、花弁だってしわがれるどころか妖艶に赤く爛熟して大きくなっていき、ある日母親が仕事から夜遅くに帰ってくると、遂にコップがバラの大きさと重さに耐えられずに床に倒れて割れていたのでした。床に転がるバラの大きさは、花束からいっとう大きいのを一つ抜いてきたような感じで、どうもコップなんかに活けられるような代物には見えません。

 何年か前に事故で死んだ夫のことで私も遂に気が触れてしまったのかと、母親は眉間をぎゅっと寄せて目をつむり額に手を当てました。

 とりあえず眼科に行こう、それで何の異常も無ければいよいよ精神病院に行こう、ああ職場になんて話せばいいだろう、まだ小学生の娘を私は一人にしてしまうのだろうか、親戚に面倒を見てくれそうな人はいるだろうか、そんな事をあれこれ考えながら、とりあえずこのバラは気味が悪いし見ているとますます頭がおかしくなりそうだから捨てよう、そう決めて床に転がったバラを拾ってゴミ箱の前に立った時のことでした。

 

 「どうしたの? ママ」

 背後から娘が訪ねました。

 母親は決して不安を悟られるまいと、ゆっくりと娘に振り返りました。

 「……伊子、このバラはね、お母さんにはちょっと気味が悪かったから、捨てることにしたの、それよりね、お母さんね、」

 娘は母親の言葉を遮りました。

 「捨てるなんてかわいそうだよ。それに、ひどいよ。だってそのお花さん、生きてるんだもん。妖精さんなんだよ。私に色んな事を教えてくれるの」

 こんな子供を私はこれから一人にするのだろうか、母親は天を仰ぎそうになりましたが、それでも涙をぐっとこらえて、母親は言いました。

 「伊子、あのね、これは造花っていうの。そっくりに見えるけど、おもちゃと変わらないのよ」

 「ぞうかなら、伊子知ってる。そうなんだ。妖精さん、ぞうかだったんだ」

 「造花を知っているなんて、伊子は凄い子ね。偉いわ」

 母親はいつもそうしているように娘を抱きしめて頭を撫でました。そして、布で出来た花びらとプラスチックで出来た茎を娘の目の前にヒラヒラとかざして言いました。

 「よく見て、伊子。でも、そうね、最近忙しくて、あまりお話も出来てなかったもんね。ごめんね」

 どうしても少し涙ぐみながら、母親は続けました。

 「ほら、分かるでしょう。伊子には言い忘れちゃったかもしれないけれど、お母さんが買ってきたのは造花なの。本物のお花じゃないのよ」

 すると娘は少しムスっとした声で言いました。

 

 「だけどお花の妖精さんは、生きてるよ?」

 

 娘の声を聞いた瞬間、母親は指に何かチクチクしたものが当たったような気がしました。バラをよく見ると、プラスチックの棘が茎から生えていました。こんなの元からあっただろうかと目をパチパチさせて眺めていると、突然わっと花びらが膨らみ、人の頭くらいのサイズになって、茎も腕くらいの太さになって、びっくりして母親は腰を抜かしてお尻から転びました。そのまま空中に放り投げられたバラは、くるくると回転しながら、スッと茎から立つよう綺麗に着地しました。母親の怯えた目に、茎が床に根を張って少しツタを伸ばしているのが見えました。

 

 その造花のバラは、信じ難いことに本当に生きていたのです。いえ、生きているのですから、既に造花では無かったのです。

 

 「ひっ、ひっ、」

 悲鳴にもならない音を喉からひゅーひゅー切り出しながら、震える体を必死で抑えて、鞄からライターを取り出して、母親は目の前の信じられない怪異を燃やそうとします。火事とかそんなことも考えられないくらいに母親は気が動転していました。それを見て娘が叫びました。

 「だから、なんでそんなかわいそうなことをするの!? 妖精さんは生きてるの!!」

 サッと波が走るようにツタが床中を覆い尽くし、瞬きもしない内に母親の足元まで辿り着いてライターを奪い取りました。母親の体は空中に磔にされました。

 「伊、伊子、落ち着きなさい、おかしい、こんなのおかしいわ、こんなことあるわけない、今すぐやめなさい、や、やめましょう」

 「嫌だもん。ママは妖精さんを燃やそうとするんだもん。生きてるんだよ? 生きてるものを無闇に殺したらいけないってママがいっつも言ってるじゃない」

 「そういう問題じゃないわ、こ、この目の前にいるのは、バケモノよ、今すぐ燃やしてしまわ────む、ぐぐ、ぅ」

 母親が全てを言い終わる前にその口はツタで覆われ、もごもごとした音しか部屋には聞こえなくなりました。

 「いいもん、ママがそんなことを言うならもうなんにも聞こえないもん」

 そう言うと母親を磔にしたまま、娘は寝室に行きました。

 「童話の中のお姫様みたい」

 寝室には茨のベッドがありました。

 「おやすみなさい」

 そうやって、この家での不思議な出来事は誰にも知られずに時間が過ぎていきました。

 

 この日からというものの、町には不思議なことが起こり始めました。

 ある小学校の通学路の周りで、毎日不思議な事が起きているというのです。

 ガードレールの形が日替わりでオシャレに変形したり、建物の壁に陽気な模様が突然現れたり、それが雨の日になると陰鬱な柄に変わったり、放置された自転車が勝手に走り始めたり、終いには歩道が口を開けて歌い始めたりと、メルヘンチックに正気を疑うことがたくさんあふれかえったのです。

 気味悪がって学校に行かなくなる子供や、はしゃいで戯れる子供など、色んな子供がいましたが、一人だけ違う子供がいました。

 小学校が暫く休校になり、警察とか科学者とかが事態の究明に当たっている日々に、その子供は通学路じゃないところを町中歩いて回っていたのです。

 彼女が道を通ればチューリップが歌い出し、木々が自分の体で楽器を作って伴奏をし、パン屋さんの煙突から出た煙が指揮棒を執り、さながら行進するオーケストラのように町に命が溢れていきました。

 「お花の妖精さんが教えてくれたの。ぞうかだって生きてるんだもの。命が無いって思われてるだけで、本当はどんなものだって絶対に生きてる!」

 彼女が「生きている」と思った瞬間に、その視界に映るもの全てが人間のように意思を持ち始めたのでした。

 町は日に日に賑やかになり、文字通り町を総出にした大合唱が昼も夜もなく鳴り響きました。壁の薄いマンションで騒音被害に苦しんでいた人はどこかへ引っ越してしまいました。時間帯も考えず楽器を弾いていた人もこれじゃ練習にならないとやっぱり引っ越してしまいました。

 

 彼女がまだ見ていない道のなくなったような、それくらい町に生命が宿りきった日の事でした。

 

 いつもは一日中歩くのにへとへとで、家に帰るとすぐに茨のベッドで寝てしまうのですが、大きな大きな一仕事を終えた彼女は、リビングでふと一息いれて母親の事を思い出したのです。

 部屋の隅には、あの日に磔にされたままの母親の姿がありました。

 「妖精さん妖精さん、お母さんを離してあげて」

 少女がそう言うと、母親を縛り付けていたツタはスルスルと離れ、その体はゆっくりと地面に横たえられました。

 「お母さん、お母さん」

 話しかけても、返事はありませんでした。代わりに「あは、あははは、あはは……」と聞いていて不安になるような音色が焦点の定まらない瞳から漏れるだけでした。

 「お母さんの、変なの」

 そっけない態度で不機嫌そうにベッドルームに向かうと、それでも少し母親の様子が気になったのか、少女は考え始めました。

 冷静に考えると、母親はもう何ヶ月も水も食料も口にしていません。それなのに、母親は確かに生きていました。

 「お母さんに、命って、あったのかなあ? 何も食べないで動くオモチャと、何が違うんだろう? 命って、なんなんだろう? ねえ、妖精さんは、知ってる?」

  少女がベッドの天蓋に話しかけると、ツタが犬のしっぽのような形を作って、フルフルと横に振りました。

 「そっかあ、妖精さんにも分からないんじゃ、私が分かりっこないもんね」

 それでも少女は、どうしても母親の事が気になるのでした。

 「もしかして、私が生きているって思い続けていたから、だからお母さんには命があるのかなあ……」

 

  

 「じゃあ、私が命があるって思わなくなったら、どうなっちゃうんだろう」

 

 

 そして少女は一瞬だけ、命のない世界を想像してしまいました。

 

 

 部屋に響いていた合唱がピタリと止まりました。

 静寂が部屋を支配しました。

 少女は音がないのにビックリして、床を蹴って急いで夜の町へと駆け出しました。

 もう歩道は喋りませんでした。建物の壁に模様もありませんでした。草花や木の類に至っては全部が全部枯れていました。町をどこまで走っても、少女の目には枯れた茶色しか映りませんでした。

 走る視界のあちこちに人が無造作に倒れていました。起こそうとして少女が人に触ってみると、その体の冷たさに驚いて後ろに飛び退いてしまいました。よく見るとその人の肌は、血の通ったものとは思えないほど蒼く白く染まっていました。

 少女は悲鳴を上げて誰かに助けを求めましたが、助けてくれる人も聞いている人も誰もありませんでした。

 倒れている人を見ては起こそうとし、まるで命がないのを確かめては次の人を探しました。

 10人くらい続けたあたりで、少女はふと警察官さんに頼るのを思いつきました。交番に走ってみると、中では蒼白く染まった警察官が何人か床に眠っていました。

 「ねえ、ねえ、誰かいないの。お願い、誰か、もう二度と、あんな事を思ったりしないから、ねえ、誰か、そうだ、妖精さん妖精さん妖精さんならきっと分かるもの、私に生きていることを教えてくれた妖精さんなら、きっとどうにかする方法だって知っているはずだもの」

 そう言うと少女は、自分の家へと来た道を引き返していきました。

 

 家に戻ると、もうツタに覆われた緑色の景色はありませんでした。町と同じように、家を覆い尽くしたツタは全て枯れてしまい、景色はただ茶色く染まっていました。母親も部屋の隅で蒼白く床で眠っていました。

 「ねえ、ねえ、妖精さん

 少女はバラの大輪だったものに向かって話しかけました。そこにはもうかつての赤色は無く、しわがれた茶色だけがありました。

 「妖精さん、お願い、返事をして欲しいの、ツタを伸ばすだけでもいいの、赤く戻ってくれるだけでもいいの、ねえ、妖精さん妖精さん、ねえったら」

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん

 返事はありませんでした。

 「妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん妖精さん……」

 

 少女の声が枯れ果てて終に蒼白くなるまで話しかけても、死んでしまったお花の妖精さんが返事をすることは、もう二度とありませんでした。