2020年06月04日 その町はまるで巨大な壁が向かい合っているようでした。

 この世ならざる者は、いつだって私達のすぐ側にいるのです。
 
 朝、私は目を覚まします。絶対に寝返らないために手首と足首につけた金具を外し、手術台から起き上がるようにして朝日を浴びます。部屋の正面の壁はガラス張りで、そのまま外に繋がっています。覗こうとすれば私の着替えるところも見放題でしょうし、何ならドアに鍵もかかっていませんから、プライバシーが無いどころの騒ぎでは無いのですけど、今この部屋に立ち入ろうとした者は間違いなく死を迎えるでしょう。覗き見だけでもかなりの確率で死ぬでしょうから、そんなことをする馬鹿はいないでしょう。もしいたとしたらその勇気を讃えたいくらいですが、きっとそんな人は数年もしない内に死ぬでしょう。
 私の背後にある壁だってガラス張りですが、少なくとも部屋の左右の壁は普通のつくりで、他人の視線を遮断してくれています。それだけで私のプライバシーを守るには十分なのでした。
 慎重に前だけを見据えながら、洗濯機とクローゼットと浴槽を横目に通り過ぎ、部屋の正面にあるもう1個のクローゼットで着替え、脱いだパジャマをやっぱりもう1個ある洗濯機に入れると、カニ歩きでドアの前まで移動して、屈んでバッグを手に取り、寮室から廊下に出ました。化粧なんてしませんし、出来ません。それは覗きなんかよりもずっとずっと死ぬ確率の高いことでしょう。それにこの近辺には鏡すら滅多と無いのです。
 
 廊下に出るとすぐ目の前にエレベータがあります。このエレベータも私の部屋のようにあまり普通ではないのでしょう。やっぱりガラス張りなのもそうですが、この廊下は100メートルくらいありそうだというのに、それと全く同じ長さの横に広いエレベータなんて他に聞いたことがありません。
 同じように着替えを終えた生徒達が、私と全く同じ構造の部屋から出てくる音が聞こえます。「おはよう」「おはよう」と声がします。私も友人達におはようと言います。それでも誰一人として顔を合わせようとはしませんし、私だって絶対に見たくありません。ただその場で棒立ちに、エレベータが来るのを待っているだけです。
 「ムージ、おはよう」とすぐ隣から声がしました。「おはよう、シーサ」と返事をします。彼女と私は小さい頃からの仲良しでした。それでもお互いの顔を見合わせたこともありませんでした。
 エレベータが来たので、みんなで乗りました。一階に向かうあいだ、横一列に並んだ誰もがただじっと前を見ていました。あの一枚の巨大の壁のような、学校とか、職場とか、そういうのが全部一体になった、壁のような建物を、目を逸らさずじっと見ていました。そしてそれは今まさに出てきた建物とそっくり同じ形なのでした。
 一階につくと、前側のドアがシャッターのように開きました。私達は足並みを揃えて目の前の建物に向かいますが、もしこの姿を観察出来たとしたらきっと軍隊か何かのように見えるのでしょう。
 
 人工太陽の光がだんだんと近くなってきます。人の目には害を成さない程度の光だそうで、目を痛くした事は生まれてこの方ありません。
 「ねえ、ムージ」
 歩く私に、シーサが話しかけます。
 「なあに、シーサ」
 私が返事をします。
 「私達、このままこんな風に、友達の顔も知らないで死ぬのかな」
 「またその話?」
 シーサは何故だか知りませんが、いつもその話をするのでした。生き伸びるより大事なことなんて、この世にあるものでしょうか。私はそのように答えました。
 「そうだけどさ、やっぱりしてみたいじゃん、普通の生活とかいうのをさ。例えばお喋りとかだって、こんな風にするんじゃなくってさぁ……」
 私とシーサは毎日楽しく話しながら学校に通うのですが、お互いに顔をまともに見たことはないのです。
 「顔も知らない小さい頃からの友達なんて、そんなことってこの世にあるの?」
 「今ここにあるじゃない」
 「それはそうだけど……」
 シーサが頬を膨らませる音が聞こえてきそうでした。実際に膨らませているのかどうかは確認したことがないのですけど、多分膨らませているのだと思います。シーサは随分と普通の生活に憧れるものです。
 そんなこんなしている内に、壁のような建物につきました。私達はまたエレベータに乗ります。目的の階で降りると、すぐ目の前に私の勉強室の入り口がありました。全員自分の部屋のちょうど真正面に目的の部屋があるのです。そのように配置されているのです。左右を見なくていいようにです。そして私の勉強室は、やっぱり手前と奥がガラス張りでした。
 「それじゃあ、また帰り道で」
 私がそう言うと、シーサが答えました。
 「ねえ、ムージ」
 「なあに」
 「今日の帰り、ちょっと話したいことがあるんだけど、良い?」
 「今じゃだめなの?」
 「うん、ちょっと長い話」
 「分かった」
 「ありがとう。それじゃ、また後で」
 シーサが私に相談なんて珍しいな、そう思いながら、私は勉強室に入りました。
 
 勉強室の中には今日の教科書が置いてあって、私は黙々と勉強を始めました。
 何時間くらい経ったのでしょうか、一つだけどうにも分からないところがあったので、私は手探りで呼び出しボタンを探して押しました。プルルルルルと着信音が鳴り響いて、呼び出し中であることを告げました。
 電話の待機音だけが部屋の中に鳴り続けます。しばらくするとブツっと音がして、天井から「先生」の声が聞こえてきました。
 「ムージさん、どうしましたか」
 私は机に備え付けられたマイクに向かって喋りかけました。
 「今日の範囲でわからないところがあって」
 「どこが分からないのか教えてもらえますか」
 「高校2年生用の数学の教科書の、72ページ目の、問題2です」
 「教科書を取ってくるので、少し待ってください」
 先生が席を立つ音が聞こえて、少しして本棚から一冊抜く音が聞こえました。いつもそこから先が面白くて笑ってしまうのをこらえるのですが、先生が慎重に慎重に、後ろ歩きで転ばないように下がって、椅子が自分のすぐ後ろにあるのを足で蹴って確かめて、慎重に腰を降ろすのが全部音から分かるのです。
 「ええと、この問題はですね──」
 普通の学校のように、先生が教壇に立って生徒を見たりしたら、それだけで先生も生徒も何人か死んでしまうかもしれませんし、先生が横について勉強を教えるには少し生徒の数が多すぎるので、このようになっているのも仕方のないことでした。
 「──ということなのですが、分かりましたか」
 「はい、ありがとうございます」
 「それでは」
 ブツッと音がして、電話が切れました。
 
 それじゃあ続きを始めよう、そう思った矢先でした。ザアアと天井からノイズのような音が鳴り、段々と大きくなっていきました。ああ、せっかく良いところだったのに、私はちくしょうと思いました。中間消灯の合図でした。このノイズには昔はサイレンの音が使われていたそうなのですが、ビックリする人が多く、たまに事故で死んでしまう事があったので、こういう形式に変わったのだそうです。
 「この音声が全ての人間に聞こえていることを確認するため、確認ボタンを押してください」
 私は言われた通りボタンを手探りで見つけて押しました。ピッと音が鳴って5分ほどすると、次のアナウンスが流れてきました。
 「全員の確認が完了しました。消灯します」
 ガラス越しの人工太陽がゆっくりと暗くなっていき、だんだんと何も見えなくなり、部屋の中に完全な暗闇が訪れました。
 「消灯完了。反転して、安全確認ボタンを押してください」
 何も見えない中、私は椅子を立つと、その日初めて後ろを振り返りました。部屋の出口の横にあるボタンを押して、私の安全を伝えました。
 「全員の確認が完了しました。点灯します。今日も一日お疲れさまでした」
 部屋に光が差し込み始め、視界の遠くでは、もう一対の人工太陽が私達を照らしていました。一方私の後ろでは、もう確認することは出来ませんが、さっきまで光っていた人工太陽はただの黒い球体となって空に浮かんでいることでしょう。
 私は部屋を出ると、やっぱり横にだだっぴろいエレベータを待ちました。

 シーサが隣の部屋から出てきました。でも、何も喋りませんでした。そういえば、朝何か話したいことがあるとか言っていたなと、私は思い出しました。シーサはとてもおしゃべりで、こんな風に黙っているなんて珍しいのです。きっと、何か重い悩みなのでしょう。
 「シーサ」
 私が声をかけました。
 「朝言ってた相談って、なあに?」
 シーサは暫く黙ったままでしたが、こう答えました。
 「ごめんね、なんでもないの。やっぱり忘れて」
 「そっか」
 あまり深入りしないほうが良いのだろうな、そう思って私はそれ以上何も聞きませんでした。
 
 帰り道は何も喋りませんでした。シーサが何も言わなかったからです。今日気付いたことですが、私はあまり自分から話すタイプではないようでした。シーサが話を振ってくれるから毎日楽しく喋れるのだろうか、そんなことをぼんやり思いました。 
 エレベータに乗って、自室の前まで着いても、やっぱりシーサは一言も喋りませんでした。「また明日ね」と私が言っても、返事はありませんでした。どうしたのでしょう。せめて明日、少しでも元気になってくれていると良いのですが。
 私は自分の部屋に入ると、バッグをそこに置きました。部屋の向こう側には朝と同じように人工太陽の一対が見えます。私は浴槽に向かって歩いていって、洋服を脱いで前の方に投げて、お風呂に入りました。次に振り返ることなくクローゼットを開けてパジャマに着替えて、洋服を拾い上げて洗濯機に入れて、眠ろうとベッドに向かいました。
 ベッドといっても、これだってきっとあまりに奇妙な形態のものなのでしょう。それは傍目には拷問具かなにかのようにしか見えないでしょう。床から足枷が、天井から長い手枷が伸びていて、それを自分で嵌めると床からベッドが立ちのぼってきます。全員の装着が確認されると人工太陽の照明が全て落ちて、本当の夜が訪れ、ベッドが倒れ、180度回転し、私が朝起きた時の姿勢になるように作られているのでした。
 
 私が足枷から嵌めようとした時の事でした。

「……振り返らないでね」

 後ろから、驚かせないようにと、最大限注意を払ったのが分かる、静かで、それでいて何か凛とした声がしました。
 シーサの声でした。
「危ないよ、シーサ」
 どうして私の部屋に入ったのかより前に、私はシーサの事を心配しました。少しでも部屋から出る手順を間違えたら、シーサは死にかねないからです。それなのにシーサは、安全にここから出るどころか、死に向かって歩を進めるかのように、私に近づいてきました。
 シーサは私を追い越して、人工太陽に照らされて、シーサの影が私を覆って、そして、
 
 私の方を、振り返りました。
 
 振り返って、しまいました。
 
 「あのね、ムージ」
 
 生まれて初めて見るシーサの顔は、とても綺麗なものでした。
 
 「こんな生活をするくらいなら、死んだ方が私はマシなの」
 
 シーサが私を抱きしめました。
 
 「あのね、だって、私、ムージのこと、す──」
 
 その瞬間でした。
 私は前からだけでなく、後ろからも抱きしめられるのが分かりました。
 それは、シーサの影でした。
 何かドロドロとしたものが私の足元から湧き上がって来ました。それはシーサを覆い尽くそうと彼女に雪崩れ込みました。必死に止めようとしましたが、私の体も動かせないほど、あまりに猛烈な勢いで、部屋を埋め尽くすように「影」が湧き上がってきました。
 人工太陽の光も届かなくなるくらいシーサの影は部屋中に広がって、すぐにシーサの体は見えなくなりました。黒いゲル状の何かがシーサの体を覆い終わると、ずるずると床の中に潜り込んでいきました。
 
 全てが終わって光が刺した部屋には、シーサはいませんでした。
 
 シーサはもう、この世のどこにもいませんでした。
 
 
 この町で自分の影を直視した者は、例外なく影に飲まれて死ぬのです。
 
 
 私はあまりに突然のことに呆然として、何を考えているのかも分からなくなりました。
 
 どれほどの時間が経過したのかも分からないことでした。
 あのザアアとしたアナウンスが始まり、私に告げました。
 
 「ムージさん、就寝の時間です。ベッドに就くセットアップを行ってください」
 
 私は床にへたりこんだまま、何も分かりませんでした。
 何か冷たい水のようなものが、頬を一筋伝いました。
 またどれほどの時間が経過したのか分からない頃に、あのアナウンスが聞こえました。
 
 「ムージさん、ムージさん。そこにいますか。緊急事態発生。緊急事態発生。住民が影に飲まれた可能性有り。住民が影に飲まれた可能性有り。場所は──」
 
 アナウンスの意味も、頬を伝う涙の意味も、私には分かりませんでした。