確率盲検のインサイダー

「どうするんですかこれ」
「どうしようもないんだよこれ」

 警官が二人、蛍光灯の下で頭を抱えて書類を付き合わせる。

「これをインサイダーで起訴しろっていうんですか」
「分からん。お偉いさん方も派閥まで出しゃばってきて大騒ぎらしい」

 書類には容疑内容と容疑者達の名が挙げられている。警察署を騒がせているのは、主に以下の二名だ。
 被告エヌ氏、30代独身。エム氏が株取引をしている事を知りながら「これから株が上がる」と告げ、インサイダー取引に関与した疑いで逮捕。本人も容疑を認めている。これだけならよくあることであり、何も問題は無い。

 問題なのは、エム氏だ。
 被告エム氏はエヌ氏に関わらず無数の会社員とインサイダー取引の連携を行っていたようだが、問題はその方法にある。
 エム氏は株価の行先について、「上がるか、下がるか」しか聞かない。そして、その返事の内容に如何無く、エム氏が事前に設定した確率で返事に従うかどうかを決める。
 「上がるor下がると答える確率」に「それに従うor従わない確率」をそれぞれかけて足し合わせると、「平均的なトレーダーが勝敗する確率」に近似されるようにエム氏が従うかどうかの確率は操作されている。エム氏の資産は見かけ上は全くの一般トレーダーであるかのように振る舞う。しかもトータルで負けている。
 ただ、これだけであれば、個別の事案についてインサイダー取引を行っているのは間違いのないことであり、起訴するのは容易だ。
 問題は、エム氏がここに更に一段階の盲検法を貼ったことだ。
 エム氏はインサイダー情報のために電話をかけるが、ここで他に多数のフリーターを雇っている。
 エム氏が電話をかけるとき、何も知らない人間から電話番号が届けられるが、それがフリーターに繋がるのか、本当にサラリーマンに繋がるのか、それ自体をエム氏は知らない。いずれの場合でも「上がる」「下がる」のいずれかが告げられ、エム氏は従うかどうかを決めるだけだ。
 勿論、フリーターに繋がる場合とサラリーマンに繋がった場合の結果を計算すればやはり期待値上で一般トレーダーと同じ勝敗率に近似するように正しく電話の取れる率が設定されている。
 ここにきて問題になるのは、故意が容易に成立しなくなることだ。
 インサイダーだろうとなんだろうと、一部の「過失」と名のつく罪を除いては、裁判で有罪にするためにはとにかく被告の悪意を証明しなければならない。インサイダー取引を行おうという明白な意志を。
 だがこの一件について刑事起訴に踏み切ったところで、「普段はフリーターの方に繋がるのでインサイダー取引というつもりはありませんでした」と言われたら、過失になる。それだけで大失態だが、「信用のできない方なので、電話とは逆の方向に注文を入れました」とまで言われたら、そもそもインサイダー自体が成立しなくなるだろう。大恥だ。
 確実に起訴できるのはエム氏を何百回でも逮捕して、今回のように本当にインサイダー取引を行ってしまった場合に、かつサラリーマンの言うことを信じてその通りに売買した場合のみだが、果たして、それに縦に首を振る確率はエム氏の机上でどれほど低く設定されているのか。
 そしてエム氏は、自らの手法を口にした後、「残りは弁護士を通して」と頑なに口を閉じ、以降黙したまま何も語ることがなかった。

 エム氏の逮捕によって、一人のトレーダーでなく警視庁が確率の上に乗った。

「妙なこと考えるやつもいるもんですねえ」
「まったくだ。こっちはてんやわんやだ」

 若い男がお茶を入れる。

「ところで警部、確率的な殺人鬼って信じますか?」
「なんだそれ。調書の読みすぎで頭がおかしくなったのか」

 警部は荒々しくお茶を飲み干すと湯呑みをゴンと机に置いた。

「いえね」

 警部補は淡々と類似の計画を説明する。
 まず主犯となる人間を用意する。その下に、実行犯を100人ほど用意する。
 主犯となる人間は大金持ちであり、仮に殺害が行われれば、被害者と同年代の人間100人の命を救うものとする。そのために実行犯は善意で命令に従う。
 主犯は仕入れ業者から3つの紅茶の売買を持ちかけられる。その内一つは特殊なアレルギー性を持ち、身体に適合する人間が飲むことが初めてであった場合死亡する。だが残りの二つは通常の紅茶である。
 主犯は仕入れると、それを100パックずつ、各100人に配る。10000個の紅茶が世に放たれる。死亡率は、知らされてもいない。ひょっとしたら、無害なのかもしれない。

「それで、ただ100回分もお茶のパックを配られたので何も考えないでお出ししてただけで、人が死ぬなんて思いもしなかったんです、と証言された時に、万が一物証が出ても、実務上そう簡単に未必の故意取れますかね」
「めんどくせーこと考えるなぁ」
「趣味でして」
「流行ってんのかぁ? エムの野郎が逮捕されてからなんかみんなずっとこんな調子だよ」

 警部はゴンゴンと机を膝で鳴らす。

「まぁ、なんか僕もアテられちゃったっていうか、なんていうかね。それよりですね」

 警部補は静かな声で言った。

「さきほど飲み干されてしまったお茶、おかわりはいかがですか?」